9669イノセンス

林 象2「孤独に歩め」「林の中の象のように」

「久し振りだな少佐。今はなんと呼ぶべきかな」
「正確には衛星経由で私の一部がロードされてるだけよ」

 かつて、『男』が少佐と呼び、草薙素子と認識されていた、その「ゴースト」を持つ者。
 どう呼べばもなにも、一部が入っているだけの、端末状態。

 端末に過ぎない擬体にベストを羽織らせ、女性扱いする『男』

「変わってないわね」

『女』が発した言葉の温かさ。

「行けよポイントマン。後ろは俺が固める…昔のようにな」

 ポイントマンとは、戦術的に最初に進む人。優秀でないと、危険度が増すわけで、服を羽織らせても、そこに送り出すという不思議な関係性を垣間見せるやり取りとなっている。

 戦闘が終わり、別れの時。

「孤独に歩め、悪をなさず、求めるところは少なく」

と、語る『女』
『男』が続ける。

「林の中の象のように」

 言葉を続けられるということは、その前にどんな言葉があるかも知っているということ。
 「愚かな者は、道伴れにするな」という戒めの言葉。
 口に出さすとも、互いに知っている。

 『女』が口にした「行くわ」という言葉。
 耳にした途端『男』には『彼女』が道伴れにならないのは、自分が愚かな者だということか、という絶望しか無かっただろう。愚かであるという判断に対するものでなく、道伴れにならないという「宣言に聞こえた言葉」に対しての絶望。その絶望がかすかな希望へと変わる瞬間。

「バトー、忘れないで。貴方がネットにアクセスするとき、私は必ず貴方の傍にいる」

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孤独に歩め、林の中の象のように

こんなのも書いてみた。林 象2「孤独に歩め」「林の中の象のように」

 「孤独に歩め・・・林の中の象のように」
 押井守監督のイノセンスの台詞。映画の中では、原文から前後が削られていた。

 元は、ブッダの言葉。「真理のことば(ダンマパダ)」のもの。
 訳者により言い回しは違うだろうけれど、手元にある岩波文庫、中村元訳のものだと、

 もしも思慮深く、聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち勝って、こころ喜び、念(おも)いを、おちつけて、ともに歩め。
 しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。
 愚かな者を道伴れにするな。独りで行くほうがよい。孤独(ひとり)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。―――林の中にいる象のように。
 事が起こったときに、友だちのあるのは楽しい。(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終わるときに楽しい。(悪いことをしなかったので)、あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。

 題名の台詞はその削られた部分に、押井氏の思慮深さと、聡明さを感じてしまって、当時公式サイトで募集してた感想文の締めに使った。

 「押井守様。孤独に歩め、林の中の象のように。ありがとうございました」と。

 愚かな伴侶(消費者・観客)を道伴れにしないでください。応援してます、と。

 愚かか、聡明か、見極める能力も、とっても大事だと思う今日この頃。

 聡明になれない私のような身では、特に。

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aemaeth と emaeth と オロク

イノセンスに出てくる、言葉、「aemaeth(7文字)」と「maeth(5文字)」

とりわけ東欧ユダヤ人の間にゴーレム伝説が保存されている。もっとも有名なのは、ヤーコブ・グリムがロマン派の機関誌「隠者のための新聞」(1808年)に掲載した採取例である。やや長くなるがいかに紹介しておこう。
(中略)
ゴーレムの額にはemeth(真理)の字が書かれているが、彼は日に日に成長して、はじめのうちはごく小さかったのに、やがて家族の誰よりも容易に大きく強くなる。そこでユダヤ人たちはゴーレムが怖くなって最初の文字を消し取ると、meth(彼ハ死セリ)しか残らなくなり、即座に潰滅してふたたび粘土に還るのである。

怪物の解剖学 種村季弘著 河出文庫
[かぼちゃの船: aemaeth:]

aemaeth(7文字)」とmaeth(5文字)じゃないのね。
この表記は少ない。

Google】で検索してみる。
「aemaeth(7文字)」
ウェブ全体結果
約 370 件
日本語結果
約 98 件

もしかして: aemeth

との表示があったから「aemeth(6文字)」検索してみる。

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人形と犬

・・・がテーマだったんだけど。
「人形、びゅてほ~」
「犬、らぶりぃ~」
などでは、ない。

何ゆえ他者を求めるか、ということ。

恋愛に「ぬくもりが欲しい」なんて理由があげられたりするけれど、それだけなら、犬さんで十分やろと思う。
離婚、別居に至る前、まだ、「あの男はなんなんだ?」という疑問符の迷路で立ち止まってたままの頃。
3歳にもならない息子を叱りつけて、泣かれて、自分も泣き出して、抱きかかえて泣いた時に、このぬくもりだけで良いと思えた。
そして、誰かを頼りたいなら、パソコン通信(当時は私の手段がそれだけだったから)でも相談していけば良いと思った。
金銭的な不安も、経済的な締め付けが酷かったから、母子手当てと何かで同じだろう、と思った。
そしたら、傷つけてくる「この男」と居るのってなんだろうって気になってきた。

自分の意見、気持ち、価値観、そうしたものを否定するような、別の意見、別の気持ち、別の価値観を持つことを良しとしない。廃棄させようとする。
内側は何ら問われることがなく、美しい外見が良いという。
それならば、人形で十分ではないか。
人形なら、家事もしてくれなければ、性交渉(う~っ)の時も無反応?
お金を稼いできてくれない?
・・・何を、「他者」に求めているのかが問われるよね、その要求。

「空の色ににている」で、

彼でありさえすればよかった

ってあったけど。
わかる、かもしんない、少しだけ。

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カーラジオから聞こえる歌声

カーラジオから聞こえてきてたはずの歌声が、降りてからもまだ、優しく聞こえてくるのって、あとのストーリーを知ってると、そして、エンディングの歌も知っていると、なんか、本当に、いつも傍に居たのかって思わせるような、すごく良い感じ。

バトーがセーフハウスに戻って犬さんと再会すると、去っていくかのように、音は小さくなり終わって。
なんか、歌声の主、守護天使、姿は見えないんだけど、「美しく身を翻して去っていく」みたいな。
そんなふうに、去っていった歌声だから、最後に、「追いかけて」とこられると、もう・・・ぐうぅっとくる。

ああ、ネットに融合してるから、流された歌声も、守護天使さんのしわざねって。

オルゴールハウス(キムの館)にある、楽楽磊磊の書。
右側にはトグサが立ってるんだけど、その反対側には、壁にもたれ、腕を組んで、伏し目がちで話を聴いているボブの黒髪の女性が立っている映像が、オルゴール盤の文字に気づいてから、はっきりと浮かんできて。

かなりの場面で、左端はスクリーンの枠からははみ出している状態で。
なんかね、そういうの、ゾクゾクする。

今日は、対談の視聴で終わった。。。
(→23分頃)
拍手だわよぅ~っ。

(→31分頃)

語られた時に、初めて、映画は存在する。

・・・そうなの。
インプットされただけじゃ駄目なのよ。
・・・あ、良き口との出会い、だわ。

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イノセンスDVD再生中

一旦、休憩。
でもって、一旦、アップ。

科学的な愛、とは?
・・・後で、考えよう。

情報、認識、そうしたような、「泡」。
泡と泡同士の結合。

高速道路、かな。
高架になっていると、その継ぎ目をまたぐ時の音が、規則正しく聞こえてくるんだけど。
実写映画とかになると、そうしたものは、余分な音になるのだろうけど(一昔前の、息を止めて撮影を見守る、みたいな)、もともと「作り物」の世界、アニメーションでは、そうしたリアルさを敢えて作りこまないといけないわけで。この音と、街灯が近づき遠ざかっているがゆえに起こっているであろう、照らされ具合の強弱(後のシーンで光の正体がわかるのも、びゅーてほー!)は、「わお」と思いました。
でもって、手作りちっくなマスコット人形とか、その向こうの掃除出来ていないフロントガラスのリアルさとか。
もうね、開始10分で、「何これ!?」な世界なわけ。

「エレベーターのシーン」
「イノセンスの情景」を見ていた時に、「あっ」て。
人間というものが、ことごとく居ない世界。
通行人、祭りの参加者はあるけれど、それらは、風景の一部として存在するわけで、物語にかかわってくる者ではなくて。
エレベーターという密室で対峙し、対話する二人。
薄汚れた壁しかない映像は、すごく悲しいものだった。
で、このイノセンスの情景というDVDは、イノセンス本編を良いと思える二人に、寄添いながら見てもらうような作品として存在するのかなって思った。
・・・えいっ →



「こどもは常に人間という規範から外れてきた・・・つまり確立した自我を持ち、自らの意思に従って行動する者を人間と呼ぶならばね」

これって、毒のある言葉だなって。
2つや3つの子ならともかく、ある程度の年齢に達している子らは、確立した自我を持ち、自らの意思に従って行動するから。
そして、むしろ、確立した自我を持たず、自らの意思に従って行動しないのは、オトナと呼ばれる部類の者であって・・・ということは、それらは、人間と呼ばれるに相応しい要件を満たしていない、ということにもなる。

これって、「ん?」と思う人と、「ニヤリ」とする人とに分かれちゃうよね。
まるで、「ノスタルジアに出てくる星の色って何色でしょう?」みたいな篩い分けにも使えるような。
DEMON KOGUREさんのSYMPHONIA収録のノスタルジア。

これは、ちょっと違うのだけど、アニメタルのライブで、新メンバーとなった当時22歳のギタリストさんが、「えいぞうさんにあやかって歌います」みたいなことを口にされて、好きな歌で、またアルバムにも入れてもらえたら、みたいなことも口にして「夢を勝ち取ろう」をソロコーナーで歌った。最後は、「失礼いたしましたっ」と結んで。
それで、「こ、この人って!?」って思ったわけです。
普通の人は、「ふうふむ。次のアルバムに入れて貰えたら良いね~」で終わってしまうくらいさりげなく、とんでもないことを口にしてるわけですわ。
それが、「あやかって」なんて言葉でもわかるし。
選んだ曲名からでも、うかがえるし。
その年齢で、大勢を前にしてやっちゃう度胸、判断力、演奏以外の自己の表現力ってのに、「うげっ」と思わされた。
このように力量を見せてくれる場面の有無、そして、有る場合は数の多さで、私のお脳の中の表現者番付でドコドコ上がっていくわけです。
東の横綱は、内田善美さん。。。

「夕食に食ったツナサンドと再会」
あまりに、びゅーてほーな表現。。。
気の利いた台詞。
言葉の持つ意味に注目してしまう。
その後の、オロクという聞きなれない単語。
そして、背中の「96」。
設定資料にもあって、プロデューサーさんと同じ名前を持つキャラクターって、特別な存在だと思う。
何か、向こう側の世界と、こちらの世界を繋ぐような、というか、接点というか。
(↑20分頃)

(→23分頃)
半分隠れている窓のガラスに映るバトー。遠ざかる様子も描いてある。
「うげっ」です。
「オロクのパーツが足りないから」
その言葉の後にも、イシカワさんのジャンパーの96はかすめていく。

(→24分頃)
街中を走るから、当然、高架の継ぎ目をまたぐ音なんて、無いわけで。
「うげ」って思うのよ。
もうもう、芸が細かいんだよぅ。
でもって、ここは音楽が聞こえているわけで、それが「カーラジオからなんだな」と思わせるのに、最初の車内高架の継ぎ目音で、「自動車の中という特別な空間」というインプットが効果的だと思う。
「うげ」なのよ~っ。
(→25分頃)
バトー自動車のミラーをずらして後部の確認。
で、これは、イシカワさんが、自分の方に戻してバトーが行くのを確認して見たかのような、イシカワさん視点の映像をはさむことで、説明されてて。
で、こうした、危険な仕事をしている者の習慣が、後々のシーンでは無く、繰り返し見ていると「ほう!」という驚きとなって、演出、すごいなって感想になってくる。
こういうのって、いかに普段から見ているか、とか、観察してるかってことで・・・本当に、すごいわって思う。
好きだ~っ。

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DVD発売イブ

DVDディスクのパッケージを見て・・・なんか、「もとこおぉ~っ」なんて、叫んでみたくもある。
アニメイトで、買ってみた。
先着購入特典DVDも貰えた。

で、視聴前バージョンを見た。

で、「ん?」と思ったのが、本編のシーンも、予告編に使う程度には出してきてて、前作の映像も出てきて、で、解説のトグサさんの声が入ってきてるんだけど、これ、脳味噌の情報処理活動を思い起こさせられた。

現在とそれから連想する過去と、それらとは別の知識、記憶している情報、自分の思考の整理のために考えている自分、他者への説明のために考えている自分、その説明のために、また別の記憶、情報を掘り起こそうとする自分。

ポコポコポコと、「泡」が、少し深い海の底から、空を見上げて、浮き上がっていくのを見ているような、イメージ。
その一つ一つの中の泡に入っているもの。

考え付かないというのは、そうした「泡」が作り出せない人ってことかな。
ただ、暗い海の底、暗い部分しか見てないような、そんな感じ。

で、オープニングの傀儡謡前、「タスケテ」と言って、自殺した人型。
そして、傀儡謡。
「精子」の爆撃による、ひび割れにも似た「たまご」の分裂、新たな「生命(人形)」の誕生。
連続する、死と誕生。

今日見て、「うげげげげ」と思いましたのことよ(^_^;)。

さ、続きを見よう。。。

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aemaeth

 とりわけ東欧ユダヤ人の間にゴーレム伝説が保存されている。もっとも有名なのは、ヤーコブ・グリムがロマン派の機関誌「隠者のための新聞」(1808年)に掲載した採取例である。やや長くなるがいかに紹介しておこう。
 「ポーランドのユダヤ人たちはある種の祈祷を唱え、何日もの断食を続けた後で、粘土または膠の人間を作る。そしてその像に向かって奇蹟示現のシェムハムフォラス(神の名)を唱えると、像は生命を帯びるはずなのである。像は話をすることすらできないが、人間が話したり命じたりすることはかなりの程度理解する。
 ポーランドのユダヤ人たちはこれをゴーレムと称し、ありとあらゆる家事労働をおこなうための給仕人に当てている。
 ただし、ゴーレムは家の中から絶対に外へ出てはならない。
 ゴーレムの額にはemeth(真理)の字が書かれているが、彼は日に日に成長して、はじめのうちはごく小さかったのに、やがて家族の誰よりも容易に大きく強くなる。そこでユダヤ人たちはゴーレムが怖くなって最初の文字を消し取ると、meth(彼ハ死セリ)しか残らなくなり、即座に潰滅してふたたび粘土に還るのである。
 かつてさる男に、彼のゴーレムがおそろしく背丈が伸びてしまうという事態が起こった。放蕩のあまり成長するのにまかせていたのであるが、ためにゴーレムの額の文字に手が届かなくなってしまったのであった。そこで男は酷く不安になって、この下僕に長靴を脱がせてくれと命じた。
 彼のつもりでは相手がかがんだ拍子に額に手が届くはずだったからである。さて、事は首尾よく成就して、最初の文字は幸いに取り去られたものの、粘土の塊がどっとばかりそのユダヤ人の身体の上に崩れ落ちてきて、彼を押し潰してしまったのであった。」

怪物の解剖学 種村季弘著 河出文庫

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